宇宙の物質と反物質の非対称性:バリオン生成のメカニズムと探求の最前線
宇宙の根本的な謎:なぜ物質だけが残ったのか
私たちの住む宇宙は、星、銀河、そして私たち自身も含め、ほとんどが「物質」で構成されています。これに対し、「反物質」は極めて稀にしか観測されません。素粒子物理学の標準模型によれば、ビッグバン直後の非常に高温・高密度の宇宙では、エネルギーから物質と反物質がほぼ等しい量だけ対生成されていたと考えられています。その後、宇宙が冷えるにつれて、物質と反物質は対消滅を起こし、エネルギーに戻っていったはずです。
もし初期宇宙で物質と反物質が完全に同数存在していたとすれば、対消滅の結果、現在の宇宙には光(放射線)だけが残り、物質は存在しないはずです。しかし現実には、宇宙には大量の物質が存在しています。これは、ビッグバンから約10億分の1秒後の非常に短い時間内に、物質が反物質よりもわずかに多く生成されたか、あるいは反物質が物質よりもわずかに速く崩壊または対消滅したかのどちらかであることを示唆しています。この物質と反物質のわずかな数の違いこそが、現在の宇宙のすべての物質の源となっているのです。
この、宇宙における物質と反物質の間の数の不均衡、すなわち「バリオン非対称性」は、宇宙論における最も根源的かつ未解決な問題の一つです。現在の宇宙のバリオン(陽子や中性子など、物質を構成する粒子)の密度と光子の密度の比は約10億分の1程度であることが観測から分かっています。つまり、初期宇宙ではおよそ10億個の物質と10億個の反物質のペアに対して、たった1個の物質が余分に存在していたことになります。このわずかな非対称性がどのようにして生まれたのかを説明する理論は、「バリオン生成(Baryogenesis)」と呼ばれています。
バリオン生成の条件:サハロフの条件
バリオン非対称性が生成されるためには、ソビエトの物理学者アンドレイ・サハロフが1967年に提唱した以下の3つの条件が満たされる必要があるとされています。
- バリオン数保存則の破れ: バリオン数とは、クォークの数から反クォークの数を引いた量に比例する物理量です。通常、素粒子間の相互作用においてバリオン数は保存されると考えられています。しかし、バリオン非対称性を生み出すためには、バリオン数が保存されない素過程、すなわち物質粒子(バリオン)の数が反物質粒子(反バリオン)の数と等しくならないような過程が存在しなければなりません。
- C対称性とCP対称性の破れ:
- C対称性(荷電共役対称性)とは、すべての粒子をその反粒子に置き換えても物理法則が変わらないという対称性です。C対称性が破れるとは、粒子と反粒子で振る舞いが異なることを意味します。
- CP対称性とは、C対称性とパリティ対称性(P対称性、空間反転に対する対称性)を組み合わせた対称性です。CP対称性が破れるとは、粒子を反粒子に置き換え、同時に空間を反転させても物理法則が変わらないという対称性が成り立たないことを意味します。バリオン生成においては、粒子と反粒子で崩壊の仕方に違いがあること(例えば、ある粒子がある組み合わせの粒子に崩壊する確率と、その反粒子が対応する反粒子に崩壊する確率が異なること)が重要になります。これがCP対称性の破れに相当し、物質と反物質でバリオン数を変化させる反応の効率が異なる原因となります。
- 熱平衡からのずれ: 初期宇宙が厳密な熱平衡状態にあると、たとえ上記1および2の条件が満たされていても、バリオン生成と反バリオン生成の反応は釣り合ってしまい、最終的なバリオン非対称性はゼロになってしまいます。したがって、バリオン生成が効率的に起こるためには、反応速度が宇宙の膨張速度よりも遅くなるような、熱平衡からずれた状態が必要です。これは通常、特定の種類の素粒子が、宇宙の温度が自身の質量を下回った後も、比較的ゆっくりと崩壊する過程で実現されると考えられています。
これらのサハロフの条件を満たすような物理機構が、初期宇宙のどこかの段階で働いたはずです。
バリオン生成の主要な候補メカニズム
バリオン生成を説明するための理論には、いくつかの主要な候補があります。それぞれがサハロフの条件を異なる物理スケールで実現しようと試みます。
1. 大統一理論(GUT)バリオン生成
素粒子物理学の標準模型を超える理論の一つである大統一理論(GUT)では、強い力、弱い力、電磁気力が約10¹⁶ GeVという非常に高いエネルギー(GUTスケール)で統一されると考えられています。この理論では、クォークやレプトンといった通常の粒子とは異なる、非常に重い粒子(例えばXボソンやYボソン)が存在すると予言されます。これらの重い粒子が崩壊する際に、バリオン数とレプトン数の両方を破る可能性があります。
GUTバリオン生成シナリオでは、ビッグバン直後の宇宙が高温でこれらの重い粒子が生成され、その後宇宙の冷却・膨張に伴って熱平衡からずれた状態で崩壊し、バリオン非対称性を生成したと考えられます。このシナリオは概念的には非常に魅力的ですが、いくつかの課題を抱えています。例えば、GUTスケールでのCP対称性の破れが観測されているバリオン非対称性を説明するには小さすぎる可能性や、宇宙インフレーションがもしGUTバリオン生成の後に起こったとすると、生成されたバリオン非対称性が希釈されてしまうという問題が指摘されています。
2. 電弱バリオン生成
標準模型の枠内でもバリオン数をわずかに破る可能性のあるメカニズムが存在します。これは、スファレロン(Sphaleron)と呼ばれる非摂動的な過程によるものです。スファレロン過程は、電弱相互作用の真空構造の「丘」を越えるトンネル効果のようなもので、これを通じてバリオン数とレプトン数の和(B+L)が変化し得ます。ただし、バリオン数とレプトン数の差(B-L)は保存されます。
電弱バリオン生成シナリオでは、初期宇宙が冷える過程で起こる電弱相転移(電弱対称性が破れてヒッグス機構が働く転移)を利用します。もしこの相転移が一次相転移(急激な転移)であれば、相転移の際に熱平衡からのずれが生じます。この非平衡環境下で、標準模型に含まれるCP対称性の破れ(フレーバー混合に関わるCP破れ)とスファレロン過程が組み合わさることで、バリオン非対称性が生成されると考えられていました。
しかし、その後の素粒子実験(特にヒッグス粒子の発見とその質量測定)や理論計算により、標準模型の範囲内では電弱相転移は一次相転移ではなく、スムーズなクロスオーバーであることが示唆されています。また、標準模型のフレーバー混合によるCP対称性の破れも、観測されているバリオン非対称性を説明するには小さすぎることが分かっています。このため、標準模型の枠内での電弱バリオン生成は困難であると考えられています。
3. レプトジェネシス
現在、最も有望視されているバリオン生成シナリオの一つが「レプトジェネシス(Leptogenesis)」です。このシナリオは、質量を持つニュートリノの存在を示唆するニュートリノ振動の観測に基づいています。標準模型を拡張し、非常に重い右巻きニュートリノ(マヨラナニュートリノと呼ばれる自己共役な粒子である可能性)を導入します。
レプトジェネシスでは、初期宇宙でこれらの重い右巻きニュートリノが生成され、その後、サハロフの条件を満たしながら崩壊すると考えられています。特に、重い右巻きニュートリノがレプトンとヒッグス粒子に崩壊する際に、ニュートリノ質量行列に含まれる未知のCP対称性の破れを通して、レプトン数に非対称性が生成されます(レプトン生成)。その後、宇宙の温度が下がる際に、標準模型のスファレロン過程がレプトン数の非対称性をバリオン数の非対称性に変換します(前述のようにスファレロンはB+Lを破りますがB-Lを保存するため、レプトン数の非対称性Lがあれば、バリオン数Bも生成されます。具体的には、B = (B-L) + L から、スファレロンはB+Lを約ゼロに近づけるため、B ≈ -L となりますが、B-Lの保存と組み合わせて最終的なBの生成を説明します)。
レプトジェネシスは、ニュートリノ振動の観測によって質量を持つことが分かったニュートリノと関連付けられる点で魅力的です。必要な重い右巻きニュートリノの質量スケールは、GUTスケールに近いものから比較的低いものまで様々なモデルが提案されています。
その他のシナリオ
上記以外にも、超対称性理論やアクシオンなどの未知の素粒子を利用するシナリオ、初期ブラックホールの蒸発を利用するシナリオなど、様々なバリオン生成メカニズムが提案され、研究されています。
探求の最前線と未解決の課題
バリオン非対称性の起源を探る研究は、宇宙論と素粒子物理学の最前線を横断しています。現在の主な探求の方向性は以下の通りです。
- 素粒子実験によるCP対称性の破れの精密測定: 加速器を用いた素粒子実験では、B中間子、K中間子、D中間子といったハドロン崩壊におけるCP対称性の破れが精密に測定されています。これらの測定は標準模型の予言と概ね一致していますが、将来的に標準模型を超える新たなCP破れの源が見つかる可能性もあります。特に、ニュートリノ振動実験におけるCP対称性の破れの探索は、レプトジェネシスとの関連で非常に注目されています。現在進行中または計画中のニュートリノ実験(例えば、日本のT2K/Hyper-Kamiokande、アメリカのNOvA/DUNEなど)は、ニュートリノセクターにおけるCP破れの有無とその大きさを明らかにする上で重要な役割を果たします。
- 宇宙論的観測によるバリオン密度の制約: 宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の異方性観測(例えばPlanck衛星)や、宇宙の大規模構造の観測は、現在の宇宙のバリオン密度を非常に高い精度で決定しています。これらの観測結果は、バリオン生成理論が説明すべきターゲット値となります。また、初期宇宙元素合成(BBN)の理論計算と、宇宙で最初に作られた軽い元素(ヘリウム、リチウム、重水素など)の観測量との比較も、バリオン密度の独立した制約を与えます。特に、BBNが予言するリチウム-7の量と観測値の間に存在する「リチウム問題」は、標準的な宇宙モデルやBBN理論、あるいは素粒子物理学モデルに未知の物理が含まれている可能性を示唆しており、バリオン非対称性の議論とも間接的に関連する可能性があります。
- 新たな素粒子・相互作用の探索: LHCのような高エネルギー加速器を用いた実験は、標準模型を超える新しい粒子(超対称性粒子、重いニュートリノ、レプトクォークなど)や未知の相互作用の探索を続けています。もしバリオン生成がこれらの新しい物理によって引き起こされているならば、将来の実験でその証拠が見つかるかもしれません。
- 重力波による探査: 初期宇宙の相転移(特に一次相転移)は、検出可能な重力波背景放射を生成する可能性があります。将来の重力波望遠鏡(例えばLISAなど)による観測は、電弱相転移のような特定の相転移が実際に起こったかどうか、そしてその性質がどのようなものであったかを知る手がかりを与えるかもしれません。
まとめ
宇宙に物質だけが overwhelmingly に存在するという事実は、素粒子物理学と宇宙論が交差する深遠な謎です。このバリオン非対称性を説明するためには、バリオン数保存則の破れ、CP対称性の破れ、そして熱平衡からのずれというサハロフの3条件を満たす物理機構が必要です。大統一理論、電弱バリオン生成、そして特にレプトジェネシスといった様々なバリオン生成シナリオが提案されていますが、現在の観測や実験に基づくと、標準模型の枠内での説明は困難であり、新しい物理が必要である可能性が高いと考えられています。
バリオン非対称性の起源の解明は、素粒子実験によるCP破れの精密測定、宇宙論的観測によるバリオン密度の制約、そして新しい素粒子や相互作用の探索といった様々な方向から進められています。この謎に迫ることは、宇宙がどのように始まり、なぜ現在の姿をしているのかという根源的な問いに答える鍵となるでしょう。今後の観測や実験の進展により、この宇宙の根本的な非対称性の秘密が明らかになることが期待されます。