宇宙の距離はしご:宇宙論における距離測定の多様な手法とハッブルテンションの謎
宇宙の広大さを理解し、その進化の歴史を読み解く上で、天体までの距離を正確に測定することは、宇宙論における最も基礎的かつ重要な課題の一つです。宇宙の年齢、膨張率、そして構造形成のスケールといった宇宙論パラメータの多くは、距離測定の結果に直接的に依存しています。しかし、宇宙は非常に広大であり、一つの方法ですべての距離を測ることはできません。このため、私たちは様々な距離測定手法を段階的に組み合わせて使用しており、これを「宇宙の距離はしご」と呼んでいます。
距離測定の「はしご」構造
距離はしごとは、比較的近い天体に対して適用できる直接的な距離測定法から出発し、その方法で校正された天体を使って、さらに遠方の天体まで距離を測る別の方法を確立し、これを繰り返してより遠くへと「階段を上っていく」概念です。
最も基本的な、はしごの第一段は三角視差です。これは地球の公転運動に伴う天体の見かけの位置の変化(視差)を利用して距離を求める方法です。地球軌道の直径を基線として、天体の視差角を測定することで、三角法によって距離を計算できます。この方法は、非常に正確ですが、測定できるのは比較的近い、例えば数百から数千パーセク(1パーセクは約3.26光年)の範囲に限られます。ESAのガイア衛星のようなミッションによって、この方法で測定できる距離は大幅に伸びていますが、それでも宇宙論的なスケールから見れば近傍宇宙に留まります。
はしごの次の段は、標準光源を用いる方法です。標準光源とは、その絶対等級(本来の明るさ)が既知であると仮定できる天体のことです。絶対等級と観測される見かけの等級(地球からの見かけの明るさ)を比較することで、距離を算出できます。見かけの明るさは距離の2乗に反比例するため、この関係を利用するのです。
標準光源としてよく用いられるのが、特定の周期と光度の関係を持つセファイド変光星です。三角視差で距離が測定できる範囲内のセファイド変光星を用いて、その周期-光度関係を校正します。校正されたセファイド変光星は、さらに遠方の銀河にあるセファイド変光星の距離を測るために使われます。セファイド変光星は比較的明るいため、数千万パーセク離れた銀河の距離も測定可能です。
セファイド変光星よりもさらに明るく、より遠方の宇宙まで観測できる標準光源が、Ia型超新星です。Ia型超新星は、白色矮星が伴星から質量を吸収するなどして、チャンドラセカール限界質量に達した際に起こる爆発だと考えられています。この爆発は非常に均一なメカニズムで発生するため、その最大光度がほぼ一定(あるいは光度曲線に特定の補正を施すことで一定とみなせる)であることが知られています。セファイド変光星で距離が測れる範囲のIa型超新星を観測し、その絶対等級を校正することで、Ia型超新星は数十億光年といった非常に遠い銀河までの距離測定に利用されます。1998年に宇宙の加速膨張が発見されたのは、このIa型超新星を用いた距離測定によるものです。
標準定規を用いる方法
距離はしごのさらに先の段や、宇宙論的なスケールでの距離測定には、標準定規と呼ばれる宇宙論的スケールを用いる方法も利用されます。標準定規とは、その固有の物理的なサイズが既知であると仮定できる構造のことです。この既知のサイズ(定規の目盛り)が、地球から観測される見かけの角度サイズとどのように対応するかを見ることで、距離を算出できます。
代表的な標準定規の一つが、バリオン音響振動(BAO)です。初期宇宙では、バリオン(通常の物質)と光子のプラズマ中で音波のような振動が発生し、特定の固有スケール(約5億光年)が刻まれました。宇宙が膨張して温度が下がると、光子とバリオンが分離し、この固有スケールは宇宙の構造に残されました。現在の宇宙の大規模構造(銀河の分布など)を観測すると、このBAOスケールに対応する特徴的な相関が見られます。BAOスケールは初期宇宙の物理によって決定されるため、宇宙の膨張によく追随する標準定規として機能します。遠方の銀河サーベイなどからBAOスケールを測定することで、その距離を推定できます。
もう一つの重要な標準定規は、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の温度ゆらぎに見られるピークスケールです。CMBは宇宙最古の光であり、その温度ゆらぎのパターンには、初期宇宙の物理状態を反映した特徴的な角度スケールが存在します。特に、最初の音響ピークの角度スケールは、宇宙の曲率や宇宙論パラメータに敏感であり、初期宇宙の物理からその物理スケールが精密に予言できます。この物理スケールと観測される角度スケールを比較することで、CMBが放たれた時代(約38万年後)までの「光行距離」を推定できます。
ハッブルテンションの謎
これらの様々な距離測定手法を組み合わせて、宇宙の膨張率を示すハッブル定数の値を決定します。ハッブル定数は、宇宙論の標準モデルであるΛCDMモデルの最も重要なパラメータの一つであり、宇宙の年齢にも深く関わります。
しかし、近年、距離はしごの先の段、主にIa型超新星やセファイド変光星などを用いた「近傍宇宙」の観測から得られるハッブル定数の値と、CMBやBAOといった初期宇宙の情報を基にした「初期宇宙」の観測から ΛCDM モデルを用いて推定されるハッブル定数の値との間に、統計的に有意な不一致が存在することが明らかになってきました。この矛盾はハッブルテンションと呼ばれ、現在の宇宙論における最大の未解決問題の一つとなっています。
具体的には、近傍宇宙の観測からは約73 km/s/Mpcという値が得られる一方、CMB(プランク衛星のデータなど)からは約67 km/s/Mpcという値が示されています。この差は、単純な測定誤差だけでは説明が難しいと考えられています。
未解決の課題と今後の展望
ハッブルテンションの原因については、いくつかの可能性が議論されています。
- 測定誤差の見落とし: 距離はしごの各段における系統的な誤差が、現在の見積もりよりも大きい可能性があります。あるいは、CMBデータの解釈や、標準宇宙モデルΛCDMにおける仮定に、まだ見落とされている要素があるのかもしれません。観測精度を高めるためのさらなる努力が続けられています。
- 標準宇宙モデルの破綻: ΛCDMモデルでは説明できない未知の物理が存在する可能性です。例えば、初期宇宙における暗黒エネルギーの性質、未知の素粒子(例:滅菌ニュートリノ)、ダークマターとバリオンの相互作用、あるいは一般相対性理論の修正など、様々な新しい物理モデルが提案されています。これらのモデルは、ハッブル定数の不一致を解消すると同時に、他の宇宙論的観測とも整合的である必要があります。
- 局所的な宇宙の構造: 私たちの銀河系を含む局所的な宇宙が、平均的な宇宙とは異なる密度分布を持っているために、近傍宇宙での測定値が歪められている可能性も検討されています。
ハッブルテンションの解決は、宇宙論の標準モデルを検証し、あるいはそれを超える新しい物理を発見する鍵となります。現在、次世代の宇宙望遠鏡(例:ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡)や大規模サーベイ観測(例:LSST)、そして重力波を用いた独立した距離測定(標準サイレンス)など、様々な手法で宇宙の距離をより精密に測定し、ハッブルテンションの真の原因を探る試みが進められています。特に、中性子星合体からの重力波とその電磁波対応天体を組み合わせることで、距離はしごに依存しない距離測定が可能になりつつあり、ハッブルテンション問題への新たなアプローチとして注目されています。
宇宙の距離を測るという一見単純な行為は、その手法の確立から最新の観測まで、人類の宇宙理解の歴史と密接に関わっています。そして今、その精密化が新たな謎「ハッブルテンション」を生み出し、私たちの宇宙観そのものに挑戦を投げかけています。この謎がどのように解き明かされるのか、今後の宇宙論研究の進展が待たれます。