宇宙論における宇宙ひもの探求:その起源、重力波、そして最新の観測的証拠
はじめに
宇宙論において、私たちが現在の宇宙の構造や進化を理解しようとする際、標準的なビッグバンモデルに加えて、様々な理論的な枠組みや仮説が導入されています。その一つに「宇宙ひも(cosmic string)」という概念があります。宇宙ひもは、初期宇宙における物理学の理論、特に素粒子物理学の高エネルギー領域における相転移の帰結として予測される、極めて細く、しかし非常に高いエネルギー密度を持つ一次元の構造です。
宇宙ひもは、あくまで理論的な存在であり、その直接的な証拠はまだ見つかっていません。しかし、もし存在するのであれば、その生成メカニズムや物理的性質は、宇宙の進化に影響を与え、観測可能な痕跡を残す可能性があります。特に近年、重力波天文学の発展により、宇宙ひもからの重力波放射を検出する可能性が注目されています。本稿では、宇宙ひもの理論的な起源から、その物理的性質、宇宙論的な影響、そして最新の観測的探求の現状について深く掘り下げて解説いたします。
宇宙ひもの起源:初期宇宙の相転移
宇宙ひもは、宇宙が誕生して間もない非常に高温・高密度の時代に起こった相転移の結果として生成されたと考えられています。物質が温度や圧力の変化に伴って、固体、液体、気体といった異なる相へと変化するように、初期宇宙の「真空」もまた、宇宙の温度が下がるにつれていくつかの相転移を経験した可能性があります。
素粒子物理学の標準模型やそれを拡張する様々な理論(例えば大統一理論や超ひも理論)では、異なる種類の素粒子間の相互作用が、特定のエネルギー(すなわち温度)において対称性を持つ状態から、低いエネルギーでその対称性が破れた状態へと変化することが予測されます。この「対称性の破れ」に伴う相転移は、水が凍る際に結晶の不純物や表面に欠陥が生じるように、時空の中に一次元の「欠陥」を生み出す可能性があります。これが宇宙ひもです。
具体的な生成メカニズムとしては、ゲージ理論におけるAbelian-Higgsモデルのような単純なモデルから、より複雑な大統一理論スケールでの相転移などが議論されています。宇宙ひもが生成される相転移のエネルギー尺度は、理論によって大きく異なりますが、典型的にはインフレーション期が終わった後の再加熱期や、その後の電弱相転移、あるいはそれより高いエネルギーでの相転移が候補となります。宇宙ひもが本当に存在するかどうかは、どの物理理論が初期宇宙を正しく記述しているかに依存すると言えます。
宇宙ひもの物理的性質と宇宙論的影響
宇宙ひもは、その断面積が素粒子のスケール(例えば
かつて、宇宙ひもは銀河や銀河団といった大規模構造の種となる可能性が議論された時期がありました。宇宙ひもの持つ重力が周囲の物質を引き寄せ、構造形成を促進するというシナリオです。しかし、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の観測、特にCOBE、WMAP、Planck衛星による高精度なデータによって、初期宇宙の密度ゆらぎの性質が詳細に測定された結果、大規模構造の主要な種は、インフレーションによって生成された量子ゆらぎであるという描像が強く支持されるようになりました。現在のCMBデータは、宇宙ひもが構造形成の支配的な要因であった可能性を排除しています。もし宇宙ひもが構造形成に寄与したとしても、その寄与はインフレーションによるゆらぎよりもはるかに小さかったはずです。
一方で、宇宙ひもは他の宇宙論的な観測量にも影響を与えうる可能性があります。例えば、宇宙ひもが背景の光を曲げることで重力レンズ効果を引き起こしたり、CMBに特定のパターン(例えば直線状の温度不均一性)を残したりする可能性も理論的に予測されていましたが、高精度な観測データからは、これらの痕跡はまだ決定的に見つかっていません。
重力波源としての宇宙ひも
宇宙ひもが最も有望な観測的探査の対象として注目されているのは、それが重力波を放射する源となりうるためです。初期宇宙で生成された宇宙ひもは、宇宙の膨張とともに引き伸ばされたり、互いに交差して切断・再接続を繰り返したりします。この過程で、閉じたループ状の宇宙ひもが生成されることがあります。
これらの宇宙ひもループは、その強い張力のために振動し、エネルギーを重力波として放出します。ループは重力波を放射しながら徐々に縮小し、最終的には消滅します。この重力波放射は、宇宙ひもの種類やループの形状に依存して、様々な周波数帯で発生すると考えられています。
特に、宇宙ひもループからの重力波は、連続的に放射される背景放射(確率的重力波背景)と、特定のループの収縮やキンク(折れ曲がり)部分からのバースト的な信号の両方として観測される可能性があります。これらの重力波信号は、その特徴的な周波数スペクトルや波形によって、他の重力波源(例えばブラックホール合体からの重力波)と区別できると考えられています。
最新の観測的探求:Pulsar Timing Arrayの示唆
重力波源としての宇宙ひもを探る上で、近年最も注目を集めているのが、Pulsar Timing Array (PTA) による観測です。PTAは、ミリ秒パルサーと呼ばれる高速回転する中性子星からの電波パルスが、地球に届くまでの時間(タイミング)を精密に測定することで、宇宙を伝播する長周期の重力波を検出することを目的としています。複数のパルサーのタイミングをアレイとして解析することで、重力波が時空を歪ませ、パルス到達時間をわずかに変化させる効果を捉えようとします。
PTAは、ナノヘルツ帯(周期が数年から数十年)の低周波重力波に対して感度を持ちます。この周波数帯は、宇宙ひもループからの重力波背景放射が比較的強い信号を生成すると予測されている帯域と一致します。
近年、世界中の複数のPTAプロジェクト(例: NANOGrav、European PTA、Parkes PTA、Indian PTA)が共同で観測データを解析し、ナノヘルツ帯に共通する重力波背景放射の候補信号を検出したと発表しました。この信号は、超大質量ブラックホール連星の合体によって生じる重力波背景放射で説明される可能性が最も高いと考えられています。しかし、宇宙ひもループからの重力波背景放射も、この観測された信号を説明できる可能性のある候補の一つとして、真剣に検討されています。
PTAによる観測結果は、宇宙ひもからの重力波信号の存在を決定的に証明するには至っていませんが、宇宙ひもモデルに厳しい制約を与えるか、あるいはその存在を示唆する最初の手がかりとなる可能性を含んでいます。今後、さらなる観測データの蓄積と詳細な解析により、この信号の起源が特定され、宇宙ひもの存在に確証が得られるかどうかが明らかになることが期待されています。
PTA以外にも、将来の宇宙重力波望遠鏡計画(例: LISA、DECIGO、ET)は、より高い周波数帯の重力波に対して感度を持ち、宇宙ひもからの重力波信号を検出する可能性を秘めています。これらの計画は、宇宙ひもループの形状やサイズ、さらには宇宙ひものネットワーク全体のダイナミクスに関する情報を提供し、宇宙ひもの物理をより深く理解する手助けとなるでしょう。
未解決問題と展望
宇宙ひもの探求には、まだ多くの未解決問題が存在します。
まず、宇宙ひもの存在そのものが理論的な予測に過ぎません。どの素粒子物理学の理論が宇宙ひもを予測し、それが宇宙論的に妥当なエネルギー尺度で生成されるのかを特定する必要があります。超ひも理論における「fundamental string」や「D-brane」といった異なる種類のひも状構造と、場の量子論における宇宙ひも(「topological defect string」)との関係も理論的な課題の一つです。
次に、宇宙ひもネットワークのダイナミクスの正確な理解が必要です。宇宙の膨張下で宇宙ひもがどのように進化し、ループを生成し、重力波を放射するのかを正確に計算することは、複雑な数値シミュレーションを必要とします。これらのシミュレーションの精度向上も求められています。
そして最も重要なのは、観測による決定的な証拠の発見です。PTAによって検出された信号が本当に宇宙ひも由来のものであるのか、あるいは超大質量ブラックホール連星など他の天体物理学的現象によるものなのかを明確に区別する必要があります。そのためには、信号の特徴(周波数スペクトル、異方性など)をより詳細に調べ、宇宙ひもモデルの予測と比較することが不可欠です。将来のより高感度な重力波検出器や、他の観測手法(例えば、将来のCMB実験によるBモード偏光の精密測定、あるいは大スケール構造の新しい観測)との連携も、宇宙ひもの探求において重要な役割を果たすでしょう。
結論
宇宙ひもは、初期宇宙の相転移という物理過程から予測される、エキゾチックな一次元の構造です。かつては宇宙構造形成の種としても議論されましたが、現在は主に重力波源としての側面から注目されています。宇宙ひもループからの重力波は、ナノヘルツ帯の確率的重力波背景としてPTAによって検出される可能性があり、近年発表されたPTAの共通信号は、その存在を示唆するかもしれない初期的な手がかりとして、活発な議論を呼んでいます。
宇宙ひもの探求は、素粒子物理学、宇宙論、重力波天文学という異なる分野を結びつける学際的なテーマです。もし宇宙ひもが発見されれば、それは初期宇宙の高エネルギー物理に関する貴重な情報を提供し、私たちの宇宙観を大きく揺るがす発見となるでしょう。観測技術の進歩により、宇宙ひもの謎に迫る時代が到来しつつあります。今後の理論研究と観測による探求が、宇宙の根源に潜むこの一次元の構造の真の姿を解き明かすことが期待されます。