深淵なる宇宙へ

宇宙論的リチウム問題:ビッグバン元素合成の成功と残された謎

Tags: 宇宙論, ビッグバン, 元素合成, リチウム問題, 未解決問題, 初期宇宙, 恒星

宇宙論的リチウム問題とは何か

宇宙論における最も重要な成果の一つに、ビッグバン元素合成(Big Bang Nucleosynthesis, BBN)があります。これは、宇宙誕生から数分という極めて短い初期の高温高密度の環境下で、宇宙に存在する最も軽い元素である水素、ヘリウム、そしてごく少量の他の軽元素が生成されたとする理論です。BBN理論は、観測される初期宇宙の重水素(D)やヘリウム4(^4He)の存在比率を非常に高い精度で説明することができ、ビッグバンモデルの強力な証拠となっています。

しかし、この華々しい成功の一方で、長年にわたり解決されていない大きな謎が残されています。それが「宇宙論的リチウム問題」(Cosmological Lithium Problem, CLP)です。BBN理論が予測するリチウム7(^7Li)の量は、最も初期の星(種族II星)の大気中に観測されるリチウム量と比較して、およそ3倍から4倍も多いという不一致が存在するのです。これは、BBN理論の主要な成功の一つである軽元素生成において、リチウムだけがなぜか理論予測と観測が大きく食い違うという状況を示しています。

この問題は、標準宇宙論モデルや標準素粒子物理学モデルの理解がどこかで不完全である可能性を示唆しており、宇宙論の研究者たちにとって重要な未解決問題の一つとなっています。

ビッグバン元素合成(BBN)の基礎

宇宙誕生からおよそ1秒後、宇宙は陽子、中性子、電子、ニュートリノ、光子などが入り混じったプラズマ状態にありました。温度は非常に高く、陽子と中性子は互いに変化し合っていましたが、宇宙の膨張に伴う温度低下により、中性子が陽子に変化する速度が優勢になります。宇宙誕生から数分が経過し、温度が約10億ケルビンまで下がると、原子核を結合させる強い力が陽子と中性子を結合させ、より重い原子核を形成することが可能になります。これがBBNの始まりです。

まず、陽子と中性子が結合して重水素(D、陽子1つと中性子1つ)が作られます。重水素はBBNにおける最も重要な中間生成物であり、これがさらなる核反応の出発点となります。重水素は陽子や中性子と反応してトリチウム(^3H、陽子1つと中性子2つ)やヘリウム3(^3He、陽子2つと中性子1つ)を生成します。これらの同位体は最終的にヘリウム4(^4He、陽子2つと中性子2つ)へと変換されます。^4Heは非常に安定な原子核であるため、この時期に生成されるヘリウムの大部分を占めます。

さらに、ごくわずかな量ですが、ヘリウム3やトリチウムがヘリウム4と反応したり、陽子や中性子と反応したりすることで、リチウム7(^7Li、陽子3つと中性子4つ)やベリリウム7(^7Be、陽子4つと中性子3つ)が生成されます。ベリリウム7は不安定で、後に電子捕獲によってリチウム7に崩壊します。BBNによって生成されるリチウムのほぼ全ては、このベリリウム7の崩壊に由来します。

BBNの理論計算は、宇宙のバリオン密度(通常の物質、つまり陽子や中性子から構成される物質の密度)というただ一つのパラメータに依存します。このバリオン密度は、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の観測データ(特にPlanck衛星などによる精密観測)から非常に高い精度で決定されており、現在の宇宙論ではその値は約4.9%であるとされています(宇宙全体のエネルギー密度の割合として)。このCMBから得られたバリオン密度を使ってBBNの理論計算を行うと、重水素やヘリウム4の予測値は、観測値と驚くほどよく一致します。これは、CMBが宇宙の姿を捉えた時点(宇宙誕生後約38万年)とBBNが起こった時点(宇宙誕生後数分)の間で、バリオン密度が大きく変化していないことを示唆しており、標準宇宙論モデルの整合性の高さを裏付けています。

リチウム問題の具体的な内容と観測的根拠

リチウム問題が顕在化するのは、BBN理論が予測するリチウム7の量と、観測によって推定される初期宇宙のリチウム7の量との間にズレがあるためです。BBN理論は、CMBから決定されたバリオン密度を用いて、初期宇宙における元素の理論的な存在比率を予測します。リチウム7についても特定の予測値が得られます。

一方、初期宇宙のリチウム量を観測的に推定するためには、ビッグバン直後に生成された元素組成をほぼそのまま保持していると考えられる天体を観測する必要があります。そのような天体として最適なのが、「種族II星」(Population II stars)と呼ばれる、金属量が非常に少ない(重い元素をほとんど含まない)古い恒星です。これらの星は、宇宙の歴史の比較的初期に形成され、その大気は、その星が生まれたガスの組成、つまり初期宇宙の元素組成をよく反映していると考えられています。

特に、銀河ハローに存在する金属量の非常に少ない種族II星の中から、表面温度が比較的高い(リチウムが表面で破壊されにくい)星を選んでその大気のスペクトルを詳細に分析することで、リチウムの吸収線の強さからリチウムの存在量を推定します。多くのそのような星の観測から得られたリチウム量の平均値は、理論的なBBN予測値と比較して約3〜4分の1程度しかありません。これが、宇宙論的リチウム問題の核心です。

この不一致は、単なる観測誤差や理論計算の誤差の範囲を超えています。重水素やヘリウム4の理論値と観測値が極めてよく一致していることを考えると、リチウム7だけの不一致は、標準モデルにおける何か根本的な不足を示唆している可能性があります。

問題の原因を探る:観測的要因か理論的要因か

このリチウム問題の解決に向けて、研究者たちは主に二つの方向から原因を探っています。一つは観測側の可能性、もう一つは理論側の可能性です。

観測側の可能性

観測側の要因として考えられるのは、種族II星の大気中で初期のリチウム量が変化してしまっている、あるいは観測やデータ解析の方法に系統的な誤差があるという可能性です。

理論側の可能性

理論側の要因として考えられるのは、標準BBNモデルやそれを構築する標準素粒子物理学モデルが不完全であるという可能性です。

最新の研究動向と今後の展望

リチウム問題は依然として未解決ですが、その解明に向けた研究は活発に行われています。観測面では、より多くの種族II星を、より高精度で観測するプロジェクトが進行しています。特に、恒星大気の3次元モデルや非平衡効果を考慮したデータ解析手法の改善が試みられています。また、種族II星以外の天体(例えば、古い矮小銀河や宇宙線)に含まれるリチウム同位体の観測も、初期宇宙のリチウム量を間接的に探る手がかりとして注目されています。

理論面では、原子核反応率の精密測定は引き続き重要な課題です。国内外の様々な実験施設で、BBNに関わる反応の断面積を低いエネルギーで測定する実験が行われています。また、標準モデルを超える新しい物理(例えば、超対称性粒子やアクシオンのようなダークマター候補)がBBNに与える影響を詳細に計算する研究も進められています。

もしリチウム問題が観測側の要因(恒星物理)によって完全に解決されるとすれば、それは恒星構造や進化の理解を深める上で非常に重要な成果となります。一方、もし理論側の要因(新物理や非標準宇宙論)によって解決されるとすれば、それは宇宙論や素粒子物理学の標準モデルを超える新たな発見となり、宇宙の成り立ちに関する私たちの理解を根本から変える可能性があります。

宇宙論的リチウム問題は、ビッグバン元素合成という成功モデルの中に潜む、新物理への窓を開く可能性を秘めた謎です。その解決は、初期宇宙の物理や素粒子の性質、そして恒星の進化過程に対する私たちの理解を深める上で、非常に重要な一歩となるでしょう。