宇宙創成期における素粒子の振る舞い:現在の宇宙を形作った物理過程を探る
宇宙論における最も深遠な問いの一つは、私たちの宇宙がいかにして現在の姿になったのか、という点にあります。ビッグバン理論は、宇宙が非常に高温・高密度の状態から始まり、膨張・冷却していく過程を経て現在の宇宙に至ったとする標準的な宇宙モデルです。この創成期、特に宇宙年齢が非常に若く、エネルギー密度が極めて高かった時代は、宇宙全体の性質を決定づける上で決定的に重要であったと考えられています。そして、その時代の主役は、素粒子物理学が扱うミクロな世界の物理法則でした。
宇宙創成期の極限環境
ビッグバン直後の宇宙は、想像を絶する超高エネルギー状態にありました。温度は10^32ケルビンにも達したと考えられており、これは素粒子が個別の存在として振る舞うことさえ難しい環境です。この時期の宇宙は、クォークやグルーオンといった素粒子が自由に飛び交うプラズマ状態、あるいはそれ以上の、まだ理論でも十分に記述しきれていないような未知の状態にあったと推測されています。
宇宙の膨張に伴い、温度は急速に低下していきます。この冷却過程で、素粒子は現在の私たちに馴染みのある形態へと姿を変えていきました。この変化は、水の温度を下げると氷になるように、物理系の状態が劇的に変わる「相転移」として捉えられます。
宇宙の冷却と相転移:素粒子の変化
宇宙が約10^12ケルビン程度まで冷えると、「クォークの閉じ込め」と呼ばれる相転移が起こります。この温度以下では、自由なクォークやグルーオンは存在できなくなり、陽子や中性子といったバリオン(3つのクォークからなる複合粒子)や、中間子(クォークと反クォークからなる複合粒子)を形成します。私たちが日常的に接する物質の基本的な構成要素である陽子や中性子が誕生したのがこの時期です。
さらに宇宙が冷え、約10^15ケルビン以下の温度になると、「電弱相転移」が起こったと考えられています。これは、電磁相互作用と弱い相互作用という、現在では異なる力として認識されている二つの力が統一されていた状態から、分離する過程です。この相転移は、素粒子に質量を与えるヒッグス機構と深く関連しており、電子のようなレプトンや、弱い力を媒介するWボソン、Zボソンなどが現在の質量を獲得したと考えられています。
これらの相転移は、単に素粒子の状態が変わるだけでなく、宇宙の進化に決定的な影響を与えた可能性があります。例えば、特定の相転移の性質が、後述するバリオン非対称性の生成に重要な役割を果たしたという説があります。
現在の宇宙を形作った素粒子の物理過程
宇宙創成期における素粒子の振る舞いは、現在の宇宙の根本的な性質、特に物質構成を決定づけました。その中でも特に重要なのが、以下の二つの謎です。
バリオン非対称性の謎:なぜ物質が反物質より多いのか
私たちの宇宙は、ほとんどが物質で構成されています。星、銀河、そして私たち自身も物質です。しかし、素粒子物理学の標準模型によれば、粒子と反粒子は対生成・対消滅し、初期宇宙では同数存在したはずです。もし物質と反物質が完全に同数であれば、宇宙が冷えて対消滅が進んだ後には、光(光子)だけが残り、現在の物質が支配的な宇宙は存在しえません。観測によれば、宇宙には反物質に対して物質が10億分の1程度のわずかな過剰分だけ存在していたと考えられています。このわずかな非対称性が、現在の宇宙の全ての物質の起源です。
このバリオン非対称性がどのように生成されたのかは、宇宙論と素粒子物理学における最大の未解決問題の一つです。「バリオジェネシス」と呼ばれるこの過程を説明するためには、ロシアの物理学者アンドレイ・サハロフが提唱した三つの条件を満たす物理が必要です。それは、(1) バリオン数保存則の破れ、(2) 電荷・パリティ同時反転(CP)対称性の破れ、(3) 熱平衡からのずれ、です。標準模型はこれらの条件の一部を満たしますが、観測されている非対称性を説明するには不十分であることが分かっています。そのため、電弱相転移の性質を利用する「電弱バリオジェネシス」や、大統一理論など標準模型を超える新しい物理が必要となる「レプトジェネシス」など、様々なメカニズムが提案され研究されていますが、決定的な証拠は得られていません。
暗黒物質の正体:宇宙の骨組みを担う未知の粒子
宇宙の物質の約85%は、光とほとんど相互作用しない「暗黒物質」であると考えられています。その存在は、銀河の回転曲線や銀河団の重力レンズ効果、宇宙マイクロ波背景放射の観測など、様々な宇宙論的観測から強く示唆されています。しかし、その正体は未だに不明です。
有力な仮説の一つは、暗黒物質が標準模型には含まれない新しい種類の素粒子である、というものです。もしそうであれば、これらの未知の素粒子は宇宙創成期に生成され、現在の宇宙にまで生き残ったと考えられます。様々な候補が提案されており、例えば弱い相互作用を持つ重い粒子(WIMP; Weakly Interacting Massive Particles)や、非常に軽いアクシオンなどがあります。これらの粒子が初期宇宙でどのように生成され、どのような熱的な履歴をたどったのかは、現在の暗黒物質の量や分布を説明する上で重要な要素となります。世界中の実験施設で、暗黒物質粒子の直接検出、間接検出、あるいは粒子加速器での生成を目指す探索が行われていますが、いまだ確証は得られていません。
標準模型を超える物理への示唆と未解決の課題
バリオン非対称性の起源や暗黒物質の正体といった宇宙論の謎は、しばしば標準模型を超える新しい素粒子物理学の存在を示唆しています。例えば、超対称性理論のような標準模型を拡張する理論は、暗黒物質の候補となる粒子を自然に予言したり、バリオジェネシスの新しいメカニズムを提供したりする可能性があります。
宇宙創成期の素粒子の振る舞いを理解することは、これらの宇宙論的謎を解き明かす鍵であり、同時に素粒子物理学における未解明の問題(例えば、素粒子の質量階層性、力の統一、ニュートリノ質量など)の解決にも繋がる可能性があります。宇宙は、私たちの知る限り最も高エネルギーで、最も単純な初期条件を持っていた物理実験室であり、そこで起こった出来事は、ミクロな世界の物理法則の根本を教えてくれるかもしれません。
今後の宇宙論観測、例えば精密な宇宙マイクロ波背景放射の偏光観測、大規模構造の詳細なサーベイ、初期宇宙重力波の探索などは、宇宙創成期の物理、ひいては素粒子の振る舞いに関する新たな手がかりをもたらすと期待されています。同時に、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)のような粒子加速器実験や、暗黒物質探索実験、ニュートリノ実験などの素粒子物理実験も、宇宙論の謎の解決に貢献する可能性があります。
結論
宇宙創成期における素粒子の振る舞いは、現在の宇宙の物質構成、構造形成の種、そして基本的な物理法則の現れ方に決定的な影響を与えました。バリオン非対称性や暗黒物質といった宇宙論の基本的な謎は、この時代の素粒子物理学が解き明かされていないことを示唆しています。宇宙論と素粒子物理学は密接に連携し、相互に手がかりを与えながら、宇宙の始まりに隠された物理法則の解明を目指しています。この探求は、私たちの存在の根源に関わる最も根源的な問いへの挑戦であり、今後も理論と観測の両面からの進展が期待されるフロンティアです。