初期宇宙における相転移:宇宙構造形成と素粒子構成の鍵を握る物理現象
初期宇宙における相転移とは
宇宙は、およそ138億年前に非常に高温・高密度の状態から始まり、膨張と冷却を経て現在の姿になりました。この冷却過程では、物質の状態が変化する「相転移」が何度も発生したと考えられています。身近な例では、水が氷になったり水蒸気になったりするのと同様に、初期宇宙の物質も温度や密度が変化することで、その物理的な性質が劇的に変化しました。
これらの初期宇宙における相転移は、単なる状態変化に留まらず、現在の宇宙の構造や、私たちが知る素粒子の構成がどのように確立されたかを理解する上で非常に重要な役割を果たしています。宇宙に存在するバリオン(陽子や中性子といった普通の物質)と反バリオンの非対称性、宇宙の温度が時間とともにどのように変化したか、さらには宇宙の大規模構造の種となった初期の密度ゆらぎの進化にも影響を与えた可能性があります。
宇宙の冷却過程と主要な相転移
宇宙の歴史を遡ると、非常に高温だった時代には素粒子が自由に飛び交うプラズマ状態でした。温度が下がるにつれて、素粒子同士が結合したり、力を媒介する場の性質が変化したりすることで、様々な相転移が起きました。宇宙の冷却史において特に重要視されている相転移をいくつかご紹介します。
インフレーション後の再加熱(相転移の側面)
宇宙誕生直後の極めて短い期間に指数関数的な膨張(インフレーション)があったとする説は、宇宙の平坦性問題や地平線問題を解決する上で有力視されています。インフレーション終焉後、インフラトン場という仮説上の場が崩壊し、そのエネルギーが通常の素粒子に転換されて宇宙が「再加熱」されたと考えられています。この過程自体が厳密には相転移とは異なりますが、宇宙の状態が劇的に変化し、その後の素粒子の時代の高温・高密度のプラズマ状態が準備されたという点で、宇宙の歴史における重要なイベントです。
電弱相転移
宇宙誕生から約$10^{-12}$秒後、宇宙の温度が約100 GeV(約$10^{15}$ケルビン)まで下がった際に起きたとされる相転移です。この相転移では、それまで統一されていた電磁力と弱い力が分離しました。この力の分離は、ヒッグス場が真空中でゼロでない値(真空期待値)を持つようになったこと(ヒッグス機構)によって引き起こされました。素粒子が質量を獲得したのもこの機構によるものです。
電弱相転移が宇宙論的に特に注目されるのは、宇宙に存在する物質(バリオン)と反物質の量の非対称性、すなわちバリオン非対称性の生成メカニズムと関連している可能性があるからです。アン ドレイ・サハロフが提唱したバリオン生成に必要な3つの条件(バリオン数保存則の破れ、C対称性およびCP対称性の破れ、熱平衡からのずれ)のうち、最後の条件が電弱相転移のような非平衡過程で満たされうると考えられています。もし電弱相転移が一次相転移(水が沸騰するような、潜熱を伴う相転移)であれば、宇宙泡が生成・合体する過程で熱平衡からのずれが生じ、バリオン非対称性生成の場となった可能性が議論されています。ただし、現在の素粒子標準模型に基づく電弱相転移は一次相転移ではなく、クロスオーバー(連続的な変化)である可能性が高いとされており、バリオン非対称性の起源は標準模型を超える新しい物理に求められるべきという考えが有力です。
クォーク・グルーオン相転移
宇宙誕生から約$10^{-6}$秒後、宇宙の温度が約150 MeV(約$10^{12}$ケルビン)以下になると、それまでバラバラに飛び交っていたクォークとグルーオンが閉じ込められ、陽子や中性子といったハドロンを形成しました。これがクォーク・グルーオン相転移です。
この相転移は、現在の宇宙におけるバリオン物質の基本的な構成単位が確立された重要な出来事です。クォークとグルーオンが閉じ込められる温度は、素粒子物理学の基本理論である量子色力学(QCD)によって計算され、格子QCDを用いた数値計算によってその性質が詳しく調べられています。重イオン衝突実験(例えばCERNのLHCやブルックヘブン国立研究所のRHIC)では、この相転移後のクォーク・グルーオンプラズマの状態を再現する試みが行われています。この相転移が宇宙の構造形成に直接的な大きな影響を与えたという証拠は今のところありませんが、宇宙の物質構成を決定づけた基本的なプロセスです。
その他の相転移(的イベント)
- ニュートリノの脱結合: 宇宙膨張による冷却により、ニュートリノが他の素粒子とほとんど相互作用しなくなる時期がありました。これは厳密な意味での相転移ではありませんが、宇宙のエネルギー成分の進化を考える上で重要なイベントです。これにより、宇宙には現在も「宇宙ニュートリノ背景」として残るニュートリノが存在すると予測されています。
- 電子・陽電子対消滅: 宇宙の温度が電子の静止質量以下になると、電子と陽電子の生成と消滅のバランスが崩れ、対消滅が優勢になります。これにより、宇宙に存在していた電子・陽電子対のほとんどが消滅し、光子に転換されました。この際、ニュートリノはすでに脱結合していたため、電子・陽電子対消滅で解放されたエネルギーを受け取らず、その結果、宇宙ニュートリノ背景の温度は宇宙マイクロ波背景放射の温度よりもわずかに低いと予測されています。
- 宇宙マイクロ波背景放射の放出(再結合期): 宇宙誕生から約38万年後、宇宙の温度が約3000 Kまで下がると、それまでバラバラだった電子と原子核が結合して中性の原子(主に水素とヘリウム)を形成しました。これにより、光子が自由に直進できるようになり、この時の光が現在、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)として観測されています。これは厳密には電離プラズマ状態から中性ガス状態への相転移的な変化であり、宇宙論における最も重要な観測証拠の一つであるCMBの起源です。この時期に存在していたわずかな密度のゆらぎが、その後の宇宙の大規模構造形成の種となりました。
相転移研究の意義と展望
初期宇宙における相転移の研究は、宇宙の基本的な物理法則を理解する上で不可欠です。これらの相転移の性質を詳しく調べることは、素粒子物理学の標準模型を超える新しい物理の兆候を探る手がかりとなります。例えば、電弱相転移が一次相転移であれば、それは標準模型を超える新しい素粒子や相互作用が存在することを示唆するかもしれません。
相転移の研究は、素粒子加速器を用いた高エネルギー実験、宇宙論的観測(CMBの詳細観測や大規模構造サーベイ)、そして理論研究・シミュレーションという、異なる分野の連携によって進められています。将来的な重力波観測によって、初期宇宙の激しい相転移(もし存在すれば)によって生成された重力波を捉えられる可能性も指摘されており、これは宇宙誕生直後の物理状態を直接探る新たな窓となるかもしれません。
初期宇宙の相転移は、現在の宇宙がなぜこのような姿をしているのか、その根源的な問いに答えるための重要なピースです。未だ多くの謎が残されていますが、観測と理論、実験が連携することで、その深淵に迫る研究が進められています。