初期宇宙における量子デコヒーレンス:微細なゆらぎはいかにして宇宙構造の種となったか
宇宙の古典的構造はどこから生まれたのか
私たちが観測する宇宙は、銀河や銀河団といった巨大な構造で満たされています。これらの構造は、宇宙が誕生して間もない頃に存在したわずかな密度のゆらぎが成長した結果であると考えられています。特に、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)には、およそ138億年前の宇宙の状態を映し出す微細な温度のむらが観測されており、これが後の宇宙構造の「種」となったとされています。
標準的な宇宙論、特にインフレーション理論では、この初期のゆらぎは、宇宙誕生直後に急膨張する際に引き伸ばされた、場の量子的なゆらぎに起源を持つと考えられています。しかし、ここで一つの根本的な疑問が生じます。量子力学の世界では、粒子や場は複数の状態が重ね合わさった「重ね合わせ状態」で存在したり、互いに相関を持つ「エンタングルメント状態」になったりします。一方で、私たちが日常や宇宙スケールで観測する現象は、特定の状態に確定した古典的な物理法則に従っています。初期宇宙の量子的なゆらぎは、どのようにして観測可能な古典的な密度のむらへと変化したのでしょうか。この「量子から古典への移行」を説明する鍵となるメカニズムの一つが、量子デコヒーレンスです。
量子デコヒーレンスの基本
量子デコヒーレンスとは、ある量子システムがその外部の環境と相互作用することによって、重ね合わせ状態やエンタングルメント状態といった量子的な性質が急速に失われ、あたかも古典的な確率分布を持つかのように振る舞うようになる現象を指します。
量子システム(例えば一つの粒子)が外部環境(例えば周囲の光子や空気分子)と接触すると、システムの情報が環境へと漏れ出し、システムと環境の間でエンタングルメントが生成されます。このエンタングルメントにより、システム単独の振る舞いは、特定の古典的な状態の確率的な混合として記述されるようになります。あたかも複数の可能性のうちどれか一つが選ばれたかのように見えるのです。ただし、これは「観測」によって状態が収縮するという伝統的な量子測定問題そのものを根本的に解決するものではなく、環境との相互作用によってシステムの量子的なコヒーレンス(干渉性)が失われることで、古典的な記述が可能になるという側面が強いです。
環境との相互作用が強ければ強いほど、またシステムのサイズが大きければ大きいほど、デコヒーレンスは速やかに進行します。これが、ミクロな粒子では量子的性質が顕著であるのに対し、マクロな物体が古典的に振る舞う理由と考えられています。
初期宇宙におけるデコヒーレンス
初期宇宙、特にインフレーション期において、量子デコヒーレンスは宇宙論的に重要な役割を果たしたと考えられています。インフレーション理論では、宇宙の急膨張を引き起こす仮想的な場である「インフラトン場」の量子ゆらぎが、宇宙スケールにまで引き伸ばされます。この引き伸ばされたゆらぎが、現在の宇宙のあらゆる構造の起源となったと考えられています。
このインフラトン場の量子ゆらぎは、本来は重ね合わせ状態やエンタングルメント状態にあります。しかし、初期宇宙にはインフラトン場以外にも様々な場(物質を構成する素粒子や放射場など)が存在しており、これらが環境として作用します。インフラトン場がこれらの環境と相互作用することで、デコヒーレンスが引き起こされます。
具体的には、インフレーション中に引き伸ばされたインフラトン場のゆらぎは、宇宙の膨張によってその波長が物理的なスケールを超えて引き伸ばされると、その量子的な振る舞いが周囲の場の自由度(環境)と絡み合います。この相互作用により、インフラトン場のゆらぎは特定の古典的な「値」を持つかのように振る舞い始めます。つまり、初期の量子的な重ね合わせ状態のゆらぎが、ランダムながらも特定の場所で「密度が高い」「密度が低い」といった古典的な性質を持つゆらぎへと変化するのです。
このプロセスは、インフレーションが終了する前に起こったと考えられており、デコヒーレンスによって「古典化」された初期の密度のゆらぎが、その後の宇宙進化において重力の作用によって成長し、現在の銀河や銀河団といった大規模構造を形成する種となったと考えられています。CMBに観測される温度ゆらぎは、このデコヒーレンスを経た初期ゆらぎの痕跡であると解釈されます。
未解決の問題と今後の展望
量子デコヒーレンスは、初期宇宙の量子的なゆらぎが古典的な宇宙構造の種となる過程を説明する上で有力なメカニズムですが、完全に理解されているわけではなく、いくつかの未解決問題や議論が存在します。
第一に、量子デコヒーレンス自体は、量子測定問題の根本的な解決にはならないという側面があります。デコヒーレンスは重ね合わせ状態を「見かけ上の」古典的な混合状態に変換しますが、「なぜ」観測者はその混合状態の中の特定の状態を現実として観測するのか、という問題(選好基底問題やマクロリアリズムの問題)は残ります。初期宇宙において「観測者」が存在しない状況で、どのように特定の古典的状態が「選ばれた」のか、あるいは選ばれたと見なせるのかは、依然として議論の対象です。
第二に、初期宇宙におけるデコヒーレンスの具体的な物理機構や、それが完了するタイミングについて、詳細なモデル化と検証が必要です。どのような場が「環境」として最も寄与したのか、デコヒーレンスの timescales はどうだったのかなど、素粒子物理学や場の量子論に基づいたより精密な計算が求められています。特に、量子重力がデコヒーレンスにどのように寄与するのかは、まだほとんど理解されていません。
第三に、インフレーション以外の宇宙論モデル(例えば、バウンス宇宙論など)においても、初期ゆらぎの起源とその古典化は重要な課題です。これらのモデルにおけるデコヒーレンスの役割やメカニズムは、インフレーション理論の場合とは異なる可能性があり、比較検討を通じてデコヒーレンスの普遍性やモデル依存性を探る必要があります。
量子デコヒーレンスは、宇宙論と量子力学という現代物理学の二つの柱を結びつける重要な概念です。初期宇宙の微細な量子ゆらぎが、広大な宇宙の構造へと進化する物語を理解するために、デコヒーレンスの役割をより深く探求することは、宇宙の起源と進化の謎に迫る上で不可欠なステップと言えるでしょう。今後の理論研究や、CMBの偏光観測などによる初期宇宙の情報収集を通じて、この複雑なメカニズムの解明が進むことが期待されます。