深淵なる宇宙へ

インフレーション理論のその先へ:地平線・平坦性問題への代替解を探る

Tags: 代替宇宙論, インフレーション理論, 地平線問題, 平坦性問題, 宇宙初期

宇宙論の標準モデルが直面した初期宇宙の難問

現代宇宙論の標準モデルであるΛCDMモデルは、観測事実を極めてよく説明する成功を収めています。しかし、このモデルの基盤となるビッグバン理論は、その初期段階においていくつかの深刻な理論的問題に直面していました。その中でも特に有名なのが、「地平線問題」と「平坦性問題」です。

地平線問題とは、宇宙マイクロ波背景放射 (CMB) が、遠く離れた領域であってもほぼ完全に一様な温度を持っているという観測事実から生じる問題です。ビッグバン理論によれば、宇宙初期の非常に短い時間において、これらの領域は因果的に連絡を取り合うことができなかったはずです。光速を超えて情報が伝わることはないため、互いの温度を均一にするような物理的なプロセスが働く時間がなかったと考えられます。にもかかわらず、CMBの温度が一様であることは、宇宙の初期状態が異常なほど特殊であったことを示唆しており、その理由が問い直されることになりました。

平坦性問題は、宇宙の空間的な曲率に関する問題です。一般相対性理論によれば、宇宙全体のエネルギー密度が特定の臨界密度と等しい場合、宇宙の空間は平坦になります。臨界密度からわずかでもずれていると、そのずれは宇宙の膨張とともに指数関数的に増大します。現在の宇宙が観測的にほぼ平坦であるということは、ビッグバン直後のごく初期の段階において、宇宙のエネルギー密度が臨界密度に驚くほど近い値を持っていなければならなかったことを意味します。この非常に特殊な初期条件がなぜ実現されたのか、という点が平坦性問題です。

インフレーション理論による解決と残された課題

これらの問題に対する最も有力な解決策として広く受け入れられているのが、宇宙インフレーション理論です。インフレーション理論は、ビッグバン後のごく短い時間(例えば $10^{-36}$ 秒から $10^{-32}$ 秒の間)に、宇宙が指数関数的に急膨張した時期があったと仮定します。

インフレーションがどのように地平線問題を解決するかというと、急膨張の前に、現在観測可能な宇宙全体が非常に小さな、因果的に連絡を取り合える領域の中に収まっていたと考えるからです。この小さな領域がインフレーションによって巨大に引き伸ばされ、観測可能な宇宙を形成したため、CMBが一様な温度を持つことが説明できるというわけです。

平坦性問題については、急膨張によって宇宙空間が極めて大きく引き伸ばされる結果、その空間的な曲率が効果的に「引き伸ばされて」平坦になることで解決されます。これは、風船を膨らませると表面の曲率が小さくなることのアナロジーで理解できます。インフレーションによって宇宙が十分に膨張すれば、初期に多少の曲率があったとしても、現在の宇宙はほぼ平坦に見えるようになるというわけです。

インフレーション理論は、これらの問題を鮮やかに解決しただけでなく、宇宙初期の量子ゆらぎがインフレーションによって引き伸ばされ、現在の宇宙の大規模構造の種となったことや、CMBのわずかな温度ゆらぎのスペクトルを予測するなど、多くの観測的な予言を成功させました。この成功により、インフレーション理論は現代宇宙論の標準的な枠組みの一部となりました。

しかし、インフレーション理論自体もいくつかの未解決の課題を抱えています。例えば、インフレーションを引き起こす「インフラトン」と呼ばれる仮説上の素粒子の正体や、インフレーションがどのように始まり、どのように終わったのかという具体的なメカニズムは、モデルによって多様であり、まだ完全に解明されていません。また、インフレーションが実際に起こったという直接的な観測的証拠(例えば初期宇宙の重力波)の検出も、今後の重要な課題です。このような課題があるため、インフレーション理論以外の視点から、地平線問題や平坦性問題を解決しようとする代替的な宇宙論的アプローチも活発に研究されています。

インフレーション以外の挑戦:代替宇宙論的アプローチ

インフレーション理論に対する代替アプローチの多くは、ビッグバン「以前」の世界や、ビッグバンとは異なる宇宙創成のシナリオを仮定します。ここでは、代表的な代替アプローチをいくつかご紹介します。

プレビッグバン宇宙論 (Pre-Big Bang Cosmology)

プレビッグバン宇宙論は、超弦理論やブレーン宇宙論に触発されたモデルです。このシナリオでは、現在の膨張宇宙の時代「以前」に、宇宙は収縮していた時代があったと仮定します。宇宙は非常に低温で希薄な状態から収縮を始め、プランクスケールに近づくにつれて弦の結合定数が増大し、強い相互作用によって収縮が停止し、現在の膨張へと転じたと考えます。いわば、ビッグバンは収縮から膨張への「跳ね返り (bounce)」であると捉えます。

このモデルにおける地平線問題の解決策は、収縮期にあります。収縮が遅く進む期間があれば、宇宙の異なる領域が互いに因果的に連絡を取り合う十分な時間があったと考えられます。その後、跳ね返りを経て膨張に転じても、収縮期に均一化された性質が引き継がれることで、CMBの一様性が説明できるというわけです。

平坦性問題については、プレビッグバン宇宙論では、収縮期において曲率項が他のエネルギー密度項に比べて小さくなるように進化すると考えられています。収縮が進むにつれて物質や放射のエネルギー密度が増大する一方で、空間曲率によるエネルギー密度はそれほど速く増大しない、あるいは特定の条件下では減少することによって、宇宙が自然に平坦に近づく(あるいは、跳ね返りの時点でほぼ平坦になる)というメカニズムが提案されています。

プレビッグバン宇宙論は理論的に魅力的な側面を持つ一方で、跳ね返りのメカニズムや、観測可能な宇宙の構造形成と合致する初期ゆらぎを生成できるかなど、まだ多くの理論的な課題や観測による検証が必要な段階にあります。

エックピロティック宇宙論 (Ekpyrotic Universe) と サイクリック宇宙論 (Cyclic Universe)

エックピロティック宇宙論もまた、ブレーン宇宙論に根ざしたモデルです。このシナリオでは、私たちの宇宙はより高次元の空間(バルク)に浮かぶブレーン(膜)の一つであると考えます。ビッグバンは、私たち自身のブレーンと、バルク空間にあるもう一つのブレーンが衝突することによって引き起こされたと考えます。このブレーン衝突によって巨大なエネルギーが解放され、それが私たちが知る宇宙の物質や放射になったというわけです。

エックピロティック宇宙論における地平線問題の解決も、収縮期に依拠します。ブレーン衝突の前に、宇宙は非常にゆっくりと収縮していたと仮定します。この収縮期に、宇宙の異なる領域は十分な時間を通じて互いに連絡を取り合い、均一化された状態になったと考えられます。衝突による跳ね返り(ビッグバン)の後、この均一性が現在のCMBの一様性として観測されるという説明です。

平坦性問題については、このモデルでは、収縮期において特定の性質を持つスカラー場(エックピロティック場)が支配的になることで解決されると考えられています。この場が収縮する宇宙を満たしていると、空間的な曲率が減少するような(あるいは平坦に近づくような)進化を自然に引き起こすことが示されています。ブレーン衝突が起こる頃には、宇宙は極めて平坦になっているというわけです。

エックピロティック宇宙論は、このモデルを提唱した研究者らによって、宇宙が収縮と膨張を繰り返す「サイクリック宇宙論」へと発展させられました。サイクリック宇宙論では、ブレーン衝突によるビッグバンは一度きりの出来事ではなく、宇宙が収縮してブレーンが衝突し、膨張に転じ、再び収縮して衝突するというサイクルを無限に繰り返していると考えます。

これらのモデルもまた、ブレーン衝突の物理や、現在の観測、特にCMBの精密観測結果(例えば、温度ゆらぎのノンガウシアン性や tensor-to-scalar ratio の値)との整合性など、多くの理論的・観測的な課題に取り組んでいる最中です。

その他の代替アプローチと今後の展望

上記以外にも、ループ量子重力理論に基づいたループ量子宇宙論などが、ビッグバン特異点を回避し、地平線問題や平坦性問題に対して異なる視点からの解決策を模索しています。これらのアプローチは、一般相対性理論が破綻するとされるビッグバン特異点において、量子重力効果が重要になり、収縮から膨張への跳ね返りを自然に引き起こす可能性を示唆しています。

インフレーション理論は、宇宙初期の難問に対して説得力のある解決策を提供し、多くの観測的成功を収めました。しかし、その理論的な基盤や具体的なメカニズムには未解明な点も残されています。一方で、プレビッグバン宇宙論やエックピロティック宇宙論などの代替アプローチは、超弦理論や量子重力といった、より根本的な物理理論に根ざしている可能性を示唆しており、宇宙創成の物理を理解するための異なる道筋を提示しています。

現在、これらの代替理論は、インフレーション理論がCMBなどに残した明確な観測的痕跡と同等の、あるいはそれ以上の説得力を持つ観測的な予言を導き出し、既存の精密な観測データとの整合性を検証するという段階にあります。今後の観測技術の発展、特に宇宙初期重力波の検出やCMBのさらなる精密測定、そして大規模構造形成のさらなる観測的制約は、これらの代替理論の可能性を検証し、宇宙の究極的な起源に関する理解を深める上で決定的な役割を果たすでしょう。

宇宙初期の地平線問題や平坦性問題への探求は、単にインフレーション理論を補強するだけでなく、宇宙の始まりがどのような物理法則によって支配されていたのか、そして現在の宇宙がなぜこのような姿をしているのかという根源的な問いに対する、多様な可能性を提示しています。異なる理論的アプローチが存在すること自体が、宇宙論という分野がまだ発展途上であり、未解決の謎に満ちたフロンティアであることを示しています。