初期ゆらぎから大規模構造へ:宇宙論における非線形構造形成の物理とその計算手法
宇宙の大規模構造とその起源
現在の宇宙は、銀河が単独で存在しているのではなく、銀河団や超銀河団が巨大なネットワーク状の構造を形成し、その間には広大なボイド(空虚な領域)が広がっています。この泡状の構造は「宇宙の大規模構造」と呼ばれています。私たちの住む天の川銀河もまた、局所銀河群として、さらに巨大なラニアケア超銀河団の一部を構成しています。
この複雑でダイナミックな宇宙の姿は、どのようにして生まれたのでしょうか。現代宇宙論の標準モデルであるΛCDMモデルによれば、その種は宇宙誕生後まもない初期宇宙に存在した、ごくわずかな密度ゆらぎに遡ります。宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の観測によって捉えられたこの微小なゆらぎは、およそ10万分の1程度の振幅を持っていました。
初期宇宙では、宇宙の膨張に抗してこのわずかな密度が高い領域に物質が集まり始め、低い領域からは物質が希薄になっていきました。この過程は重力によって駆動されます。当初、この構造形成は密度コントラストがまだ非常に小さいため、線形摂動論によって比較的単純に記述することが可能でした。しかし、時間が経過し、密度コントラストが大きくなるにつれて、線形理論は破綻し、構造形成はより複雑な「非線形」の段階へと移行します。現在の宇宙で見られる銀河や銀河団のような密度の高い構造は、この非線形進化の産物です。
この記事では、初期宇宙の微小なゆらぎが、どのようにして現在の宇宙の大規模構造へと非線形的に進化してきたのか、その物理的なメカニズムと、この複雑な現象を理解するために科学者が用いている計算手法について深く掘り下げて解説します。
線形構造形成の段階
宇宙の初期段階、特に宇宙マイクロ波背景放射が解放された時代(宇宙誕生から約38万年後)においては、宇宙全体にわたる密度ゆらぎは非常に小さく、線形摂動論が有効な記述方法でした。この線形段階では、異なる波長の密度ゆらぎが互いに独立して進化すると近似できます。
物質と放射が強く相互作用していた時代には、密度ゆらぎは圧力を伴う音波として伝播しました。宇宙の膨張によってこの音波のスケールは引き伸ばされ、物質の密度が高い領域と低い領域が周期的に現れました。これがバリオン音響振動(BAO)の痕跡として、CMBや大規模構造の相関関数に残されています。
宇宙が膨張し温度が下がると、放射が物質から decoupling(分離)し、ダークマターが重力的に優勢になります。ダークマターは圧力を持たないため、その密度ゆらぎは重力不安定性によって指数関数的に成長します。バリオンもダークマターの重力ポテンシャル井戸に引き寄せられ、構造形成が進みます。この線形段階での密度ゆらぎの成長率は、宇宙の物質密度、ダークエネルギー密度、ハッブル定数といった宇宙論パラメータに依存します。線形パワースペクトラムは、初期ゆらぎの性質とこの線形成長を反映したものであり、CMBや大規模構造の観測から得られる重要な情報源です。
非線形構造形成への移行
宇宙がさらに進化し、密度コントラスト(平均密度からの偏差を平均密度で割った値)が約1に達すると、線形摂動論による記述はもはや適切ではなくなります。これは、密度ゆらぎが互いに独立して進化するという線形近似が破綻し、高密度の領域で重力が局所的に支配的になるためです。物質は指数関数的な成長からさらに加速され、自己重力的な崩壊を起こして、非常に密度の高い構造を形成し始めます。これが非線形構造形成の始まりです。
非線形段階では、密度の高い領域はさらに物質を引きつけ、密度の低い領域からは物質が流れ出していくという、非対称で複雑な進化をたどります。個々の質点間の重力的な相互作用が重要になり、線形理論では扱えない多体問題の様相を呈します。銀河や銀河団といった、私たちが観測している宇宙のほとんどの構造は、この非線形進化の産物です。非線形構造形成を理解することは、現在の宇宙の姿を正確に把握し、そこから初期宇宙の情報や宇宙論パラメータを抽出するために不可欠です。また、ダークマターやダークエネルギーの性質を探る上でも、非線形領域での観測と比較は重要な手がかりとなります。
非線形構造形成の物理的な側面
非線形構造形成は、重力多体問題として記述されます。ニュートン重力の下では、各粒子は他の全ての粒子から重力を受け、その運動は運動方程式によって記述されます。宇宙論的なスケールでは、この運動方程式に加えて、宇宙膨張の効果(フリードマン方程式に基づく慣性項のようなもの)を考慮する必要があります。
ダークマターは圧力を持たないため、純粋に重力によって集まります。小さな密度ゆらぎは最初に崩壊して、ダークマターハローと呼ばれる塊を形成します。このハローは階層的に成長すると考えられています。つまり、小さなハローが先に形成され、それらが合体・衝突を繰り返してより大きなハローへと進化するというシナリオです。現在の銀河や銀河団は、これらのダークマターハローの中心部にバリオンが集まって形成されたと考えられています。
一方、バリオン(通常の物質)は、ダークマターの重力ポテンシャル井戸に引き寄せられるだけでなく、圧力や粘性を持つガスとして振る舞います。また、バリオンガスは放射によって冷却されたり、星形成や活動銀河核(AGN)からのエネルギー放出(フィードバック)によって加熱・吹き飛ばされたりします。これらの複雑なガス物理過程は、構造形成の最終的な形態に大きな影響を与えます。特に銀河スケールや銀河団中心部のような密度の高い領域では、ダークマターだけでなくバリオンの物理が決定的に重要になります。非線形構造は完全に均質ではなく、フィラメント状の構造が交差するノード部分に銀河団が集まるなど、シェルフラクタル的な、泡と空隙からなる大規模なウェブ構造を形成します。
非線形構造形成を理解するための計算手法
非線形構造形成は解析的に解くことが極めて困難であるため、その理解には主に以下の計算手法が用いられます。
摂動論の拡張
線形摂動論は密度コントラストが小さい領域で有効ですが、非線形領域に近づくと補正が必要になります。これを高次の摂動論によって行う試みがあります。標準摂動論(SPT)は、密度コントラストを摂動展開することで、線形理論の次のオーダー以降の効果を取り入れます。しかし、この展開は急速に収束が悪くなるため、比較的弱い非線形領域にしか適用できません。より最近のアプローチとして、有効場理論(EFT)を用いた手法があり、非線形スケールでの小さなスケールの物理を「有効な」パラメータとして取り込むことで、摂動論の適用範囲を拡大しようとしています。これらの摂動論的手法は、特に大規模なスケールでの非線形効果を解析的に理解する上で有用です。
数値シミュレーション
密度コントラストが大きくなり、多数の粒子が複雑に相互作用する領域では、数値シミュレーションが不可欠なツールとなります。
- N体シミュレーション: これは最も基本的なタイプのシミュレーションで、宇宙空間に配置された多数の粒子(通常はダークマター粒子を表す)が互いの重力のみによってどのように運動するかを追跡します。粒子の運動方程式を数値的に解くことで、ダークマターハローの形成や合体、大規模構造の進化を詳細に再現できます。ツリー法やマルチポール法といった効率的なアルゴリズムが、長距離の重力相互作用の計算コストを削減するために用いられます。
- 宇宙論的水体シミュレーション: N体シミュレーションに加えて、バリオンガス(通常の物質)の物理を組み込んだシミュレーションです。ガスは流体として扱われ、ナビエ・ストークス方程式に似た方程式を解く必要があります。重力だけでなく、圧力勾配、粘性、衝撃波、放射冷却、星形成、超新星爆発やAGNからのエネルギーフィードバックといった非常に複雑な物理過程をモデル化する必要があります。IllustrisTNGやEAGLEのような大規模な水体シミュレーションは、現在の宇宙で見られる銀河の質量関数や空間分布、銀河団の性質などを再現し、観測と比較することでモデルの検証や宇宙論パラメータの制約に貢献しています。
これらのシミュレーションは、設定された宇宙論パラメータ(ダークマター密度、ダークエネルギー密度、初期ゆらぎの振幅など)の下で宇宙がどのように進化するかを予測する「理論的な実験室」として機能します。シミュレーションの結果を実際の観測データ(銀河の分布、銀河団の数、弱重力レンズ効果など)と比較することで、私たちの宇宙論モデルの妥当性を検証し、そのパラメータを精密に決定することが可能になります。
未解決問題と今後の展望
非線形構造形成の研究は大きく進展しましたが、依然としていくつかの未解決問題と課題が存在します。
主要な課題の一つは、非線形スケールにおけるバリオン物理の正確なモデリングです。特に、星形成やAGNからのフィードバックが、銀河やハロー中心部の構造、そして大規模構造全体に与える影響を精密に記述することは非常に困難です。これらの物理過程は複雑であり、現在のシミュレーションでは現象論的なモデルが多く用いられており、これがシミュレーション結果の不確かさの一因となっています。
また、ダークマターやダークエネルギーの性質も、非線形構造に影響を与えます。例えば、ダークマターが自己相互作用を持ったり、温かいダークマターであったりする場合、形成されるハローの内部構造や小さなスケールの構造に違いが現れる可能性があります。ダークエネルギーの性質(例えば、その密度が時間に依存するかどうか)も、構造成長の歴史に影響し、非線形構造の観測から制約を与えることが期待されています。さらに、ニュートリノに質量がある場合、その自由ストリーミングが構造形成を抑制するため、非線形構造の観測からニュートリノ質量の上限を定める研究も進められています。
非線形構造はまた、標準的な一般相対性理論に対する修正重力理論を検証するための場ともなり得ます。大規模なスケールでの重力の振る舞いは、非線形構造形成のパターンに影響を与える可能性があるため、精密な観測データと比較することで、一般相対性理論からの逸脱を探る試みが行われています。
今後の宇宙論研究は、Euclid、Nancy Grace Roman Space Telescope、Square Kilometre Array (SKA) といった次世代の観測プロジェクトによって、かつてない精度で宇宙の大規模構造を観測する時代を迎えます。これらの膨大なデータを最大限に活用し、宇宙論パラメータをさらに精密化し、ダーク成分や重力の性質を探るためには、非線形構造形成に関する理論的理解と計算手法のさらなる発展が不可欠です。高解像度かつ物理的に包括的な数値シミュレーションの開発、そして観測データから非線形効果を精密に分離・解析する統計的手法の進化が、宇宙の進化の全貌を解き明かす鍵となるでしょう。