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初期宇宙の非ガウス性:ゆらぎの痕跡が探るインフレーションと代替理論

Tags: 非ガウス性, 初期宇宙, インフレーション理論, 宇宙マイクロ波背景放射, 大規模構造

はじめに

宇宙論において、私たちが観測する宇宙の大規模構造や宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の温度ゆらぎは、宇宙誕生直後のごくわずかな密度のゆらぎが成長した結果であると考えられています。これらの初期ゆらぎは、現在の標準的な宇宙モデルであるΛCDMモデルにおいて、ほぼ「ガウス的」であると仮定されています。しかし、もし初期ゆらぎがガウス分布からわずかにでも外れる「非ガウス性」を持っていた場合、それは宇宙の最も初期の段階で何が起こったのか、特にインフレーション理論の詳細や、あるいはインフレーション以外の初期宇宙モデルについて、非常に重要な情報を提供してくれます。この非ガウス性の探求は、現代宇宙論における最も活発な研究分野の一つです。

宇宙論における「非ガウス性」とは

統計学的に見ると、ガウス分布(正規分布とも呼ばれます)は平均と分散(あるいは標準偏差)によって完全に特徴づけられる分布です。確率変数がガウス分布に従う場合、その高次相関関数(例えば、3点相関関数や4点相関関数など)はすべて、2点相関関数(分散)から導出されます。つまり、分布がガウス的であるということは、ゆらぎが完全にランダムであり、特定のスケールや位置で特別に強い相関を持たないということを意味します。

宇宙論的な初期ゆらぎが「非ガウス的」であるとは、その分布がガウス分布からずれており、2点相関関数だけでは完全に記述できない、より高次の相関(例えば、特定の三角形形状のゆらぎのクラスターなど)が存在することを指します。この非ガウス性の最も単純な指標は、3点相関関数や4点相関関数といった高次の統計量によって定量化されます。

なぜ初期宇宙の非ガウス性が重要なのか

初期宇宙のゆらぎの統計的性質、特にその非ガウス性は、宇宙がビッグバン後のごく短時間で経験したとされる指数関数的な膨張期、すなわちインフレーションのシナリオに強く依存します。

標準的な、最も単純な形のインフレーション理論では、宇宙は単一のスカラー場(インフラトンと呼ばれます)によって駆動され、この場がゆっくりと転がり落ちることでインフレーションが終了すると考えられています。このモデルが予測する初期ゆらぎは、ほぼ完全にガウス的です。具体的には、ごくわずかな非ガウス性は予測されますが、これは観測的に検出可能なレベルよりはるかに小さいと考えられています。

しかし、より複雑なインフレーションモデル、例えば複数のスカラー場が関与するモデル、インフラトンの運動項が非標準的な形を持つモデル、あるいはインフレーション中にインフラトン以外の場と強く相互作用するモデルなどでは、標準的な単一場インフレーションよりも大きな、そして特徴的な形状を持つ非ガウス性が生成されることが予測されます。

さらに、インフレーション理論とは全く異なる初期宇宙モデル、例えばビッグバンの前に収縮期があったとするバウンシング宇宙モデルや、高次元ブレーンワールドモデル、ループ量子宇宙論に基づくモデルなどでも、標準インフレーションとは異なる性質を持つ非ガウス性が予測される場合があります。

したがって、初期宇宙の非ガウス性を観測的に精密に測定することは、提唱されている様々な初期宇宙モデルを検証し、どれが私たちの宇宙を最もよく説明しているのかを判断するための極めて強力な手段となります。非ガウス性の検出は、単一場インフレーションの単純なシナリオを大きく超える物理が初期宇宙で起こっていたことを示唆することになるのです。

観測による非ガウス性の探求

初期宇宙の非ガウス性を探る主な観測手段は二つあります。一つはCMBの温度や偏光のゆらぎの詳細なパターンを解析すること、もう一つは宇宙の大規模構造、すなわち銀河や銀河団の空間分布を統計的に解析することです。

宇宙マイクロ波背景放射(CMB)による探求

CMBは、宇宙誕生から約38万年後の「宇宙の晴れ上がり」の頃の宇宙の姿を映し出す光であり、初期の密度のゆらぎが最も純粋な形で刻まれています。WMAP衛星やPlanck衛星といった高精度なCMB観測ミッションは、CMBの温度ゆらぎが非常に高い精度でガウス的であることを示しました。特にPlanck衛星の最終データ解析では、標準的な単一場インフレーションが予測するレベルを超える有意な非ガウス性は検出されませんでした。これにより、多くの単純な非標準インフレーションモデルや、大きな非ガウス性を予測する一部の代替モデルに強い制約が与えられました。

ただし、CMBは宇宙の晴れ上がりの時点のスナップショットであり、また観測可能な宇宙の地平線によってその情報量には限界があります。特定の非ガウス性の形状(例えば「等辺型(equilateral)」や「直交型(orthogonal)」と呼ばれる形状)に対しては比較的強い制約が得られていますが、「局所型(local)」と呼ばれる形状に対する制約は、大規模構造の観測と組み合わせることでさらに強化されます。

大規模構造(LSS)による探求

宇宙の大規模構造は、CMBで見られた初期ゆらぎが重力によって成長した結果です。銀河や銀河団の空間分布の統計的解析、特に銀河の2点相関関数だけでなく、3点相関関数や4点相関関数、あるいは銀河のハロー(ダークマターの塊)の質量分布などを調べることで、初期宇宙の非ガウス性の痕跡を探ることができます。

大規模構造の観測には、SDSS(Sloan Digital Sky Survey)やDES(Dark Energy Survey)、日本のすばる望遠鏡によるHSC(Hyper Suprime-Cam)などの大規模な銀河サーベイが用いられます。CMBと比較して、大規模構造はより後期の宇宙の状態を反映しているため、初期ゆらぎの非ガウス性だけでなく、その後の非線形的な重力進化や、銀河がどのようにダークマターハローに形成されるか(バイアスと呼ばれる現象)といった様々な要因が複雑に絡み合っています。そのため、大規模構造から初期非ガウス性の情報を抽出するには、精緻な理論モデリングとデータ解析技術が不可欠です。

しかし、大規模構造はCMBよりもはるかに大きな体積の宇宙を観測するため、CMBだけでは捉えきれない初期非ガウス性に関する補完的な、あるいはより強い情報を提供する可能性があります。特に、大規模構造のデータは、CMBが最も感度を持つ「局所型」非ガウス性に対して強い制約を与えます。

現在のところ、大規模構造の観測からも、CMBの示唆と矛盾しない範囲で、有意な初期非ガウス性は検出されていません。しかし、将来の広視野サーベイミッション、例えばDESI(Dark Energy Spectroscopic Instrument)やEuclid衛星、そして次世代のCMB実験(CMB-S4など)は、現在の観測よりも格段に高い精度で非ガウス性を測定する能力を持ちます。これらの将来観測は、現在の非ガウス性の上限値を大幅に引き下げ、標準的なインフレーションシナリオをさらに厳密に検証するか、あるいは初めて非ガウス性の兆候を捉える可能性を秘めています。

非ガウス性の理論的分類とその意義

非ガウス性は、理論的にはいくつかの異なる形状(シェイプ)に分類されます。最もよく研究されているのは以下の三つの形状です。

  1. 局所型(Local Shape): この形状の非ガウス性は、初期ゆらぎが異なるスケール間で非線形的に結合することで生じます。例えば、非常に大きなスケールのゆらぎが、それより小さなスケールのゆらぎの振幅を変調するといった形で現れます。多場インフレーションモデルで比較的大きな非ガウス性が予測されやすい形状です。観測的には、CMBのISW効果(Integrated Sachs-Wolfe effect)や、銀河バイアス(ダークマターハローにおける銀河形成効率が周囲の密度ゆらぎに依存する度合い)を通じて大規模構造に強く影響を与えます。
  2. 等辺型(Equilateral Shape): この形状の非ガウス性は、インフレーション中のインフラトンの運動項が標準的でない場合や、インフラトン自身が自己相互作用する場合に生成されやすい形状です。CMBのデータがこの形状に対して最も強い制約を与えています。
  3. 直交型(Orthogonal Shape): これは局所型や等辺型とは異なる形状であり、特定の相互作用を持つインフレーションモデルで生じうると考えられています。CMBデータからの制約は等辺型に次いで強いです。

これらの異なる形状の非ガウス性を区別して観測することは、初期宇宙でどのような物理過程が働いていたのかを特定する上で非常に重要です。例えば、もし局所型の非ガウス性が検出されれば、それは単一場インフレーションよりも多場インフレーションシナリオを強く支持する証拠となります。非ガウス性の形状は、初期宇宙の理論モデルによって予測が異なるため、観測データによってその形状を特定することは、モデルを絞り込むための強力な手がかりとなるのです。

未解決問題と今後の展望

現在のところ、CMBおよび大規模構造の精密観測からは、標準的な単一場インフレーションモデルが予測するレベルを超える有意な非ガウス性は検出されていません。これは、非常に単純なインフレーションモデルがまだ観測的に有力な候補であることを示唆しています。

しかし、これは初期宇宙が単純であったと結論づけるには時期尚早です。現在の観測の上限値をもってしても、まだ多くの非標準インフレーションモデルや一部の代替理論を排除することはできていません。また、観測の精度には限界があり、特に大規模構造からの非ガウス性情報の抽出は、銀河バイアスなどの複雑な効果を正確にモデル化する必要があるため、理論的な課題も残っています。

今後の展望としては、次世代の観測プロジェクトが鍵を握ります。CMB-S4のような地上のCMB望遠鏡アレイは、CMBの偏光データを用いて非ガウス性に対する制約をさらに厳しくします。EuclidやRoman Space Telescopeといった宇宙望遠鏡、およびDESIのような大規模地上サーベイは、広大な宇宙領域における銀河の3次元分布を詳細にマッピングすることで、大規模構造からの非ガウス性情報を大幅に向上させることが期待されています。

もしこれらの将来観測によって有意な非ガウス性が検出された場合、それは宇宙論における画期的な発見となるでしょう。それは、初期宇宙が標準的なインフレーション理論の単純な絵姿よりもはるかに複雑であったことを示し、宇宙論研究に新たな方向性をもたらすことになります。非ガウス性の形状が特定されれば、それは宇宙創成期における素粒子物理学の理解に直接的に繋がる可能性もあります。

結論

初期宇宙のゆらぎにおける非ガウス性の探求は、宇宙論が直面する最も根源的な問題の一つ、すなわち「宇宙はどのように始まったのか」という問いに答えるための重要なアプローチです。CMBと大規模構造の精密な観測によって、私たちは非ガウス性に対する制約を年々厳しくしており、標準的なインフレーションモデルが持つ単純さにどこまで許容範囲があるのかを探っています。

現在の観測ではまだ非ガウス性の明確な兆候は捉えられていませんが、その上限値は既に多くの理論モデルを排除しています。今後の次世代観測は、この探求をさらに深め、もし非ガウス性が検出されれば、それは宇宙論に新たな夜明けをもたらすことでしょう。非ガウス性の研究は、観測と理論が密接に連携しながら、宇宙の最も初期の瞬間に隠された物理法則の解明を目指す、現代宇宙論の最前線なのです。