宇宙の大規模構造の塊具合を巡る謎:S8テンションとその宇宙論的意義
導入:宇宙の標準モデルが抱える新たな「緊張」
宇宙論の標準モデルであるΛCDMモデルは、宇宙の進化や大規模構造の形成について多くの観測的事実を驚くほどよく説明しています。このモデルは、宇宙がダークエネルギー(Λ)、冷たいダークマター(CDM)、そして通常のバリオン物質、ニュートリノ、光から構成されていると考えます。しかし、近年、異なる宇宙論的観測手法の間で、モデルが予測する宇宙論パラメータの値に不一致が見られるようになってきました。最も広く知られているのはハッブル定数の不一致(ハッブルテンション)ですが、宇宙の大規模構造の塊具合を示すパラメータにも同様の「緊張」が存在し、これはS8テンションと呼ばれています。
S8テンションは、宇宙の初期宇宙の状態から予測される大規模構造の特性と、現在の宇宙を直接観測して得られる大規模構造の特性との間に見られる不一致を指します。この不一致は、標準ΛCDMモデルが不完全である可能性や、あるいは観測データに未知の系統誤差が含まれている可能性を示唆しており、宇宙論研究の最前線における重要な課題となっています。
S8パラメータとは:宇宙構造の塊具合を測る尺度
S8パラメータは、宇宙の大規模構造がどれだけ「塊状」になっているか quantify するために用いられる宇宙論パラメータの一つです。具体的には、宇宙の物質密度パラメータ $\Omega_m$ と、宇宙の初期ゆらぎの振幅を示すパラメータ $\sigma_8$ を組み合わせた量として定義されます。一般的な定義の一つは $S_8 = \sigma_8 (\Omega_m/0.3)^{0.5}$ です。
ここで、$\Omega_m$ は現在の宇宙における全物質(バリオン物質とダークマター)のエネルギー密度が、宇宙を平坦にするために必要な臨界密度の何倍にあたるかを示す dimensionless quantity です。$\sigma_8$ は、半径8メガパーセク(Mpc)の球体に含まれる物質密度のゆらぎの大きさをRMS値(Root Mean Square)で表したものです。8Mpcというスケールは、現在の宇宙における銀河団程度の典型的な構造のサイズに対応しており、このスケールでの密度ゆらぎは、その後の重力による構造形成を強く反映します。
したがって、S8パラメータは、宇宙初期の密度ゆらぎの種が、現在の物質密度のもとで、現在の宇宙の構造スケール(およそ銀河団スケール)でどれだけ成長し、塊状になっているかを示す、宇宙の構造形成の度合いを総合的に表すパラメータと言えます。この値は、標準ΛCDMモデルのもとで理論的に計算することも、現在の宇宙の観測から直接測定することも可能です。
CMBからのS8制約:初期宇宙からの予測
宇宙マイクロ波背景放射(CMB)は、宇宙誕生からおよそ38万年後の reheating が終わった直後の宇宙の姿を映し出す光です。CMBの温度ゆらぎは、その時点での宇宙の密度ゆらぎの種を encodes しています。CMBの観測データ、特にプランク衛星による高精度のデータは、インフレーション theory などで生成された初期ゆらぎのパワースペクトル(ゆらぎのスケールごとの強さの分布)や、バリオン密度、ダークマター密度、ハッブル定数などの宇宙論パラメータを高精度で決定することを可能にしました。
標準ΛCDMモデルでは、CMBから得られた初期条件と宇宙論パラメータを用いて、その後の宇宙の進化(重力による構造成長など)を理論的に計算することができます。この計算により、現在の宇宙における大規模構造の塊具合、すなわちS8パラメータの値を予測することができます。プランク衛星のデータに基づくCMBからのS8の値は、例えば$S_8 \approx 0.83$ 程度の比較的高い値を示唆しています。このCMBからの予測値は、宇宙論の標準モデルが正しければ、現在の宇宙を直接観測して得られるS8の値と一致するはずです。
大規模構造からのS8測定:現在の宇宙の観測
一方、現在の宇宙における大規模構造(LSS)を観測することで、S8パラメータを直接測定する様々な手法が存在します。主な方法には以下のものがあります。
- 銀河分布と銀河団数: 銀河や銀河団が宇宙空間にどのように分布しているかを調べることで、密度ゆらぎの統計的性質を測定できます。特に銀河団の数は、高密度領域に大きな構造が多く形成されていることを示し、S8パラメータと密接に関連します。
- 弱重力レンズ効果: 遠方の銀河から届く光が、手前の大規模構造(特にダークマターの分布)によってわずかに歪められる現象(弱重力レンズ)を測定します。この歪みの程度は、手前の物質密度の空間的な分布に依存し、S8パラメータを含む構造形成パラメータに直接的な制約を与えます。これは物質の分布そのものを probes するため、バイアスの影響を受けにくい強力な手法と見なされています。
- 宇宙の streaming motions: 銀河がハッブル膨張からずれて運動する streaming motions は、周囲の物質の重力によって引き起こされます。これらの運動を測定することで、宇宙の物質分布、ひいてはS8パラメータに制約を与えることができます。
DES (Dark Energy Survey), KiDS (Kilo-Degree Survey), HSC (Hyper Suprime-Cam Survey) などの主要な大規模観測サーベイは、これらの手法を用いてS8パラメータの測定を行っています。これらのLSS観測から得られるS8の値は、おおよそ $S_8 \approx 0.75$ から $0.78$ 程度の、CMBから予測される値よりも低い傾向を示すことが多いです。
S8テンションの現状と統計的有意性
現在の宇宙論研究におけるS8テンションとは、まさにこのCMBから予測されるS8の値と、LSS観測から直接測定されるS8の値との間に存在する、統計的に有意な不一致を指します。具体的には、プランク衛星のCMBデータが示唆するS8の値は、弱重力レンズ効果を用いた最新のLSSサーベイの結果と比較して、2〜3$\sigma$ 程度の違いが見られることがあります。
この不一致の統計的有意性は、ハッブル定数の不一致(ハッブルテンション)ほど高くない場合もありますが、複数の独立したLSS観測が consistent に低いS8の値を示していることから、単なる statistical fluctuation ではない可能性が指摘されています。このテンションは、観測手法やデータ解析の方法によってその大きさや有意性が変動するため、依然として活発な議論の対象となっています。
テンションの原因を探る:観測的側面と理論的側面
S8テンションの原因としては、主に二つの可能性が考えられています。
- 観測における系統誤差: CMBまたはLSS観測のデータ、あるいはその解析方法に、まだ十分に理解されていない系統誤差が含まれている可能性です。特に弱重力レンズ観測は、複雑なデータ補正やシミュレーションを用いた比較が必要となるため、系統誤差が入り込む余地が指摘されることがあります。CMB観測も、 foreground emissions や instrument calibration など、系統誤差の potential source が存在します。今後のより精緻なデータ解析や、独立した観測手法によるcross-checksが、この可能性を検証するために重要となります。
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標準ΛCDMモデルの限界: もし観測データが正しければ、S8テンションは標準ΛCDMモデルが宇宙の全てを説明できていないことを示唆します。この場合、新しい物理学が必要となるかもしれません。考えられる可能性には以下のようなものがあります。
- ニュートリノ質量の過小評価: 標準ΛCDMモデルではニュートリノ質量は非常に小さいと仮定されることが多いですが、もしニュートリノに significant な質量があり、それが標準的な assumed value よりも大きい場合、質量を持つニュートリノは relativistically 運動するため、宇宙のstructure formation を damping する効果を持ちます。これにより、現在のS8の値を低下させる可能性があります。LSS観測はニュートリノ質量に敏感なため、S8テンションを緩和する方向に働くかもしれません。
- ダークエネルギーの進化: ダークエネルギーが定数(宇宙項Λ)ではなく、時間とともにその密度が変化するような性質(例えばクインテッセンスモデルなど)を持つ場合、宇宙の膨張史や構造成長の歴史が変化し、S8の値に影響を与える可能性があります。現在の加速膨張だけでなく、過去におけるダークエネルギーの振る舞いがS8テンションに関連しているかもしれません。
- ダークマターの性質: 冷たいダークマター(CDM)が仮定されていますが、もしダークマターが warmer であったり、自己相互作用を持ったりする場合、小規模な構造形成が抑制され、結果として大規模な構造の塊具合にも影響を与える可能性があります。
- 修正重力理論: 一般相対性理論が宇宙論的スケールで修正される場合、重力の効果が変化し、構造形成の成長率が標準モデルと異なる可能性があります。これによりS8テンションが解消されるモデルも提案されています。
- 初期宇宙の物理: インフレーション後の再加熱期や、その後の宇宙における素粒子間の相互作用など、初期宇宙の物理過程が標準モデルの想定と異なる場合、初期ゆらぎの進化や構造形成の種に影響を与え、S8テンションとして現れる可能性があります。
これらの理論的な可能性は、それぞれが新しい物理学の探求につながります。しかし、どの可能性が正しいのか、あるいは複数の要因が組み合わさっているのかを特定するためには、さらなる高精度な観測と理論的検証が必要です。
今後の展望と課題
S8テンションの解決は、今後の宇宙論研究における主要な目標の一つです。現在進行中および将来計画されている大規模観測プロジェクトは、この謎に迫る上で重要な役割を果たします。
- Euclid衛星: 欧州宇宙機関(ESA)のミッションで、大規模な弱重力レンズ観測と銀河分布観測を行う計画です。これまでにない高い精度でLSSパラメータ、特にS8を測定することが期待されています。
- Rubin Observatory (旧 LSST): 米国チリに建設中の地上望遠鏡で、広大な天域を非常に深く観測し、膨大な数の銀河に対して弱重力レンズ効果や銀河分布の統計を調べることで、S8を含む宇宙論パラメータを高精度で制約することを目指しています。
- CMB-S4: 次世代の地上CMB実験計画で、CMBの偏光を高精度で測定することにより、初期宇宙の情報から宇宙論パラメータをさらに精密に決定することを目指しています。
これらの観測データが蓄積され、より洗練された解析手法が用いられることで、S8テンションが観測的な系統誤差によるものなのか、それとも新しい物理学によるものなのかが明らかになる可能性があります。もし新しい物理学が原因であれば、それはΛCDMモデルを超えた宇宙の新たな描像を示唆することになります。
課題としては、異なる観測間の系統誤差を徹底的に排除すること、そして理論的な原因候補について、S8テンションだけでなく他の宇宙論的制約(例えばハッブルテンションやCMBの別の特徴、バリオン音響振動など)とも consistent に説明できるモデルを構築・検証することが挙げられます。
結論:宇宙の描像を問い直すS8テンション
S8テンションは、宇宙マイクロ波背景放射と大規模構造観測という、宇宙論における二つの主要な観測プローブが示す、現在の標準モデルΛCDMに対する潜在的な挑戦です。この不一致は、宇宙の大規模構造の塊具合という、宇宙の進化を理解する上で fundamental なパラメータに関わるものであり、その解決は宇宙論の次のステップにとって極めて重要です。
S8テンションが単なる観測誤差によるものか、それともニュートリノ質量、ダークエネルギーの性質、修正重力、あるいは初期宇宙の未知の物理など、標準モデルを超える新しい物理学の兆候であるのかは、まだ明らかではありません。しかし、この「緊張」は、私たちに宇宙の fundamental parameters をより精密に測定することを促し、宇宙の進化と構造形成の根源を深く探求するための強力なモチベーションとなっています。今後の観測と理論の進展により、S8テンションの謎が解き明かされ、宇宙の描像がさらに refine されることが期待されます。